2013年2月21日木曜日

子どものために-その1-考え方や行動は違うのが普通

ちょっと気になることがあったので、考え方をまとめる備忘録として書いておきたい。
子どものために」というフレーズについてだ。

まず、ボクは息子が大好きだ。再来月の4月に新入学を迎える息子は、生まれた時は少し小さかった。ハイハイ→伝い歩き→直立二足歩行→補助輪付き自転車って感じでぐんぐん成長してきた。補助輪を取る時は少しく苦労した。お父さんの役目として?自転車が倒れないように後ろから支えて、押しながら走ったり、公園の緩やかな坂道で練習したりして、やっと補助輪なしでも自分でバランスを取れるようになった。どんどん遠くまで自転車で行けるようになった。なんか、サナギから蝶になったような感覚だ。

仕事を終えて自宅に帰るのが楽しみだ。まだ、一人で寝るのが怖いみたいで、「一緒に寝よっ」て誘ってくるのがまた嬉しい。寝付くまで手をつないでいる。この頃は特に寒いので、一つの布団で寄り添って寝ている。「お父さん、あったかい」なんて言われたらギュって抱きしめてしまう(^^)

こんなことができるのは、あと数年だろう。小学生も高学年になると、そんな幼児っぽい可愛らしさはなくなるだろうし(*_*)そう思うと、余計に今の可愛らしさを満喫しておきたくなる。兎にも角にも、ボクは息子が大好きなんだ。

さて、

小学校の入学説明会資料にPTAの説明がほとんどなかったので、学校に問い合わせした時のことだったと思うが、学校関係者から「皆さん子どもために・・・」とか「子どものためを思って・・・」PTA活動しているという主旨の発言を聞いたのだが。

ネットを散策していると、PTAの役員や会員からも同様の発言がなされていたことについて、多くの意見が述べられれている。ボクも恐れず思うところを書きなぐってみよう。

1)PTAに入会しない人やPTA活動に協力しない人は、「子どものため」と(を)思っていない人?

  先にも書いたが、ボクは息子が大好きだ。息子のために嫌な仕事でも耐えるてきているし、息子のためにお小遣いが減らされても我慢している・・・息子のためかおかぁちゃんが怖いのか(T_T)
 ボクは、世界中のどんな親よりも、ボクが息子に対して抱く愛情がより大きく、より深く、より美しく、より輝いていると思う。それは間違いない!ってすら思う(^^;

 もし、ボクがPTAに入らなかった場合、ボクは息子のためを思わないダメオヤジなわけ?

 そもそも、入退会自由の任意団体であるPTAに入会するか否かという自由選択の結果によって、他人様の子どもに対する愛情を判じているのは間違ったロジックだ。

 そんなロジックは破綻している。PTAに入ることは親の一つの愛情表現であるかもしれない。しかし、それが全てではない。もし、全てだとした場合、親はPTAに入会すれば、他の子育てを放棄してもいいという論理に発展しかねない。結論を見るまでもなく、そんな方向性は間違っていることは明らかだ。
 ということで、「PTAに入ることは親の一つの愛情表現であるかもしれないが、それが全てではない。」というのは正しいと思う。

 もし「PTAに入会しない人は、子どものためと(を)思っていない人」という、そんなニュアンスで発言する人がいるとすれば、その発言者の考え方が間違っているか、その発言者の頭がおかしいか、その発言者の人格が歪んでいるか、その発言者の心がすさんでいるか、あるいはそれら全部ってことになる(^^;

 別の言い方をすれば、そんな発言ができる人とは生涯のお友達にはなれないんだから、さっさと袂を分かったほうがいい。もし、相手が教師なら、以下の考察を提示した上で、そのご存念を充分にお聞きして、教委に矯正指導をお願いして、あとは転勤を祈るとか、子どもが卒業するまで我慢するしかないのだろう。

2)「皆さん子どものためにPTAに入って(活動している)・・・云々」

 この「皆さん」という言葉が曲者だな。
「みんながやっているから=正しい」というニュアンスを含んでいる。ボクにはそう聞こえる。
 また、「みんながやっているから=あなたがやらないのは正しくない/おかしい」という微かな臭いもしてくる。ボクにはそんな臭いが漂ってくる。どうもクサイ。

 だいたい、入会に際して何ら説明もせず、入会するか否かを聞かずに自動的(強制的)に全員入会としてきたんだから、そんな保護者達を称して「PTAに入っている皆さん」と呼ぶのはおかしいんじゃない?

 
 日本は、いわゆる「ムラ社会」があった。村八分という言葉が残っているように、昔は生活共同体の中から外されると死活問題でもあった。そんな歴史を引き継いでいる我々は、兎角「みんなと同じように」「目立たないように」「出る杭は打たれる」という生活訓を持っている。それは、生活習慣病にさえ思える。
そんな病気を起こすムラ社会からの幽霊を 「同調圧力」 と呼ぶこともあるようだ。

 ボク♂はファッションセンスがないというか、普段着なんてユニクロのTシャツとジャージでいいと思うほうだ。(同じようなユニクロ服が)誰かとかぶっても別に気にならない。一方、妻♀はといえば、ご近所様の奥様がたと同じファッションだったら嫌みたいだし、化粧なるものをしないで外出すると死罪にでもなると信じているようだ。

 一般的かどうか分からないが、ボクの生活圏内には、男性服を売る店は少なく、女性服を扱う店のほうが圧倒的に多い。しかも、男性服はスーツに代表されるように、ジャンルというのだろうか、服の種類は少ないように思う。対して、女性の服飾関係は、スカートやズボンだけでも長いのから短いのまであって、色はイロイロだし、それに加えて上着や靴との兼ね合いなんかも考えたり、ワンピースとかもあるし、兎にも角にも品数が多いのではないだろうか。そんな中から選ぼうとするのだから、兎にも角にも時間がかかる。世の男性諸氏で女性の買い物につきあうのが好きだという御仁はそう多くないのではないだろうか。少なくとも、ボクは、女性の買い物(食料品以外)に付き合った結果、買い物にかける時間の概念に関しては男女差があまりにも大きいと実感している。

 そんなファッションでは多種多様や個性を楽しむ女性陣だが、(ネットを散策していると)、ことPTAに関してはどうも男性より女性のほうが同調圧力を強く感じる傾向にあるようだから不思議だ。
これが人民服なら、絶対着るのはイヤ!って言うと思うんだけどね。

3)みんなの考え方や行動は一種類じゃない

 自分の子どもと他人の子どもを見比べれば、直ぐにわかることがある。顔が違う、体つきが違う、性格が違う、食べ物の好みが違う。同じようなところもある。よく笑う、すぐに泣く、すぐに怒る、感情の高ぶりとともに手が出てしまう、遊ぶのが好き、友達がすき、ママが大好(*^^*)。
 という具合に、同じようなところもあれば、違うところもある。他人だから当たり前だ。

 そんな個性豊かな子どもたちが、やがて大きくなって大人になって、結婚して、子宝に恵まれ・・・そして、同じ考えを持ち、同じ服装を着て、同じ価値観で考え、同じ政党に投票し、同じテレビを見て、同じ趣味を持って、同じ時間に起きて、同じ団体に奉仕し、同じ時間に寝る。やがて、同じ日時に亡くなり、同じ場所で葬式を出されて、同じ場所へ埋葬される。

 あれ? ちょっとおかしくないかい?

 十人十色というのに、義務だから小学校に集まってきたに過ぎない個性的な保護者の我々全員が、同じ任意団体に入らないといけないなんて、正しいわけがない。それができるとするのは、民主主義じゃない。それって、中国や北朝鮮のやり方じゃない?教師の組合とかいうところの影響なんだろうか?

 
 みんなの考え方や行動は一種類じゃないことのほうが当たり前だろ
 

 ゴルフのレッスン界の至宝。ハービーペニックという人がいた。彼の名言を思い出した。
 「ゴルフのスイングは、指紋と同じだ。個性的であるほうが正しい。」

 みんなが同じ任意団体に所属することが、子どものためになるかどうかは、個別の事情を考慮しない発言でもあるし、やっぱりおかしい発言だと思う。
 ということで、「皆さん・・・で」と言われると、「へぇ~そうなんや。それがどうした?」「俺は俺」って思うようになってきた。これからは、
「皆さん子どものためを思ってPTA活動をされてまして」って言われたら、
「それはそれはご奇特なことで」って言ってみることにしようと思う。

政党と同じように、PTAにも複数種類あってもいいのかもしれない。
現在のような左よりのPTAじゃなくって、もっと自由で民主的な第2PTAを作って、また別に社民党みたいな第3PTAもつくって、いっそのこと自分専用PTAを自分だけ会員で作って、そんな選択肢を、保護者が選択できるような体制にするってのはどうなんだろう?

それがひいては、子どものためになるんじゃないだろうか。

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